柴田収蔵(1820-1859)は、佐渡の小港・漁村に四十物屋(小魚加工業)の息子として生まれながら、三度に渡る江戸遊学を経て、漢方そして蘭方の医師となり、さらに地理学の専門家として幕府天文方蕃書和解御用、そして蕃書調所絵図調書役に採用された人物である。主な業績としては、世界地図『新訂坤輿略全図』(1852年)と北方図『蝦夷接壌図』(1854年)の刊行、また官撰の『重訂萬国全図』(山路諧孝編1855年刊)への作図担当としての貢献が知られている。
歴史研究における柴田収蔵の生の重要性は、徳川後期において地方がいかに知のネットワークにつながっていたかを考える材料をわれわれに提供することにある。収蔵の知的・文化的活動には、居村ベースのつながりと、それを越えた佐渡各地とりわけ中心地相川町の役人・医師・文化人とのネットワーク、さらに江戸遊学で形成された師弟・学友関係という三層のサークルがある。私の興味は、この重層する文化的構造、そしてそれを部分的に結合させる仕掛け、そのネットワーク上での人と情報の移動に影響を与える歴史的社会的変動、これら三点にある。そこで、この小論では、収蔵の世界地理への関心に焦点を当て、それが彼の生を取り巻くどのような人的・社会的・歴史的環境の中で育まれ、そして江戸での世界地図の出版にまでつながったのかを考えたい。